読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Like Site

ブックマーク代わりのブログ

ニュースブック

学研グループの電子事業部株式会社ブックビヨンドが運営している

サイト、ニュースブック。

地方新聞で掲載された記事を電子化して有料配信しています。

今は、ブログやSNS、ローカル情報サイトも豊富で、それなりの

情報を手に入れることができまが、地元に暮らす新聞記者が

プロ根性で書いている文章を読む機会はなかなかありません。

ブックビヨンドが良質な記事を選んで配信しているということで

有料とはいえそれほど高額ではありませんし、一部の電子書籍ストア

でも配信していますので気軽に購入できます。

自分も順番に購読していこうかと考えいます。

 

 

 

newsbook.tokyo

 

 

象を守った人の物語

旭川の旭山公園。

これまでなかった行動展示で大人気の動物園になりました。

(行動展示という表現は好きじゃないですが。)

旭山動物園の開園は昭和42年でちょうど50年前になります。

昭和42年というと日本が輝いている時代です。

 

───── 

 

信田修治郎氏という方がいました。

(いやぁ1911年生まれだから、確認できなかったけれど多分

 もう亡くなっているんじゃないかと。)

札幌で剥製を作る会社を創業した方で、その筋では著名人らしい。

 

現在は2代目に引き継いでいて(当たり前か)、円山動物園

剥製はその会社で作っているそうです。

 

円山動物園のことを掘り下げていたら、この信田修治郎氏という方に

邂逅しました。

かいつまんで説明しますと、クル病にかかった象がいたのですが、

この先動物園での飼育は無理ということで、信田氏に象を預けたのが

物語のはじまりです。

象の名前は「花子」。

(しかしどうしてこうも象の名前は「花子」だらけなのか(^_^;))

この花子、旭山動物園の開園にあわせてS41年に北海道入りしたのですが、

やってくるのが少し早かったらしく、札幌の円山動物園で預かり一冬を

過ごしました。その時も既にクル病だったことには気づいていたそうです。

そうして翌年から旭山動物園での生活が始まったものの、クル病は

悪化するばかり、象の身体が重い事も災いしたのかも知れません(私見です)。

飼育を断念した旭山動物園の園長は信田氏に花子を託すことにしたのです。

信田氏は花子を見て、クル病を克服できるのではないかと判断したのです。

そーしてここから壮絶な日々が始まります。

花子は最後をパラグアイでむかえました。

 

パラグアイと読むと「なんでー」となりませんか?!

 

すごい物語なのです。でも本当にあった話!!ノンフィクションです。

 

信田氏が花子とのことを書いた著書があります。

自分もこれから順を追って読みます。

 <信田修治郎著>

  • 1969年 花子よみがえるクル病の小象-越冬させるまでー
  • 1970年 とうとう歩けた病気の小ぞうが雪の国へやってきて
  • 1970年 がんばれ花子―雪の中で象を育てた
  • 1970年 花子のたび  ※1970年発行月順不明
  • 1973年 花子との対話-狩場の山ふところで

 

1970年発行「修ベエ回想記」という著書もありますが、

内容は花子のことじゃないかもしれませんが記載しました。

 

何でも、読売新聞社の記者が冬の札幌の山奥に象がいることに

驚いて記事に載ったのがきっかけとか。

当時は、随分と新聞を賑わせたようです。

 

早く、知りたい方は、

ホームページ「南後志をたずねて」に詳細が書いてあります。

ゾウが湯治にやってきた

 

このサイト読むだけでも感動もんです。

象も人もリスペクトです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何気ない日常の記録

来年は、蝦夷から北海道に改名されて150年にあたります。

いつの頃からか北海道、というより札幌の歴史を追いかける

ようになりました。

150年は長いか短かいか?

日本国の歴史を考えるとまだまだ甘ちゃんですよね。

 

札幌の本格的な開墾は明治2年です。

その頃の札幌は原生林が生い茂り、小川があちらこちらに

流れ、たくさんの鹿が野を走り、熊やキツネも生息する、

未開発の土地でした。

今の札幌、特に都市部にはその記憶のかけらも残っていませんが・・・。

 

望みを持って北海道にやって来た開拓人は

初めて見た札幌に、何を思ったのでしょうか。

 

現代人には到底考えられないような労働と苦労と

極寒の寒さの中、黙々と働き毎日を過ごしていたのかと

想像するだけで畏敬の念しかありません。

 

恥ずかしながら、半世紀以上生きてやっと、

先人達の苦労に目を向けるようになったのです。

 

150年なら追えるだろと始めたのですがこれが、甘かった。

ネット上でも結構ブログやなんやかんやでアップしている

サイトも多いのですが、慣れてくるとだいたい同じ資料を

読んでいることがわかってきます。

 

そうなると、もう少し違う角度からと思っていたところ、

札幌古地名考という回顧録を見つけました。

大正生まれのペンネーム札幌原人が書いた文章です。

その1から始まり全部で54話あります。

 

札幌古地名考は、北海道建設協会の札幌支部のサイトに

掲載されているのですが後々、いえすでに貴重な資料では

ないかと思われます。

出版されていたら安心なのですが。

 

歴史を調べていると、札幌古地名考のような何気ない日常を

伝えることが大切なのではないと思うようになりました。

 

このような回顧録がもっと見つけられないかと

図書館や古本屋に足を運ぶ日々です。

 

150年前と現在では異次元のような変貌を遂げていますが、

100年後と今とでは劇的に変わっているようなことはあるので

しょうか。残念ながら確かめることはできません。

 

ならば名も無き人間が暮らした日々を綴り残すことに

多少でも何か意義があるのかも知れないと感じています。

 

 

http://www.h-ab.com/sapporo/feature/kochimeikou/

札幌古地名考(北海道建設協会 札幌支部掲載)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからは協同生活

実家の老両親を気にかけながら働いている人は日本の人口の

何パーセントを占めているのでしょうか。

それでも年老いているとはいえ夫婦二人で暮らしている

方が安心なのですが、どちらかが欠けるとそうは言ってられません。

自分はこのまま順風(?)に年を取るとまさしく孤老な生活が

待っているのですが、それはそれで構わないとは思っています。

大分前のことになりますが、母親を手元に呼び寄せようかと

真剣に考えていた時期がありました。

しかし??、よくよく考えてみると呼び寄せたところで、朝出かけたら

夜の8時、9時まで帰ってこない娘と暮らすことにどんな意義あるのだろう

と悶々としていた事がありました。

そんな時に、コレクティブハウスという存在を知ったのです。

コレクティブハウスについては割愛しますが、もし、そんな環境で

母親と暮らせることが出来のならば、呼び寄せる意義もあるのではないかと

道が開けたような気がしました。

残念ながら、自分が暮らす地には本当の意味でのコレクティブハウスは

存在しなくて、無いのならば作ればいいじゃないか!!

とは思いながらも、どうしたらいいのかさっぱりわからないまま

17、8年が経過し、母親は田舎で元気に暮らしています!(^^)!

(母は兄夫婦と同居しているので基本的に心配は無いのです。)

コレクティブハウジング(だったよね)というNPOが実際既に

このしくみを手がけています。

資金もノウハウも知恵も必要で、どうしたらいいものか。

長年考え続けているということは、まだあきらめてはいないのだと

自分で自分を不思議がっています。

いきなり大きなことなんかできるわけもないので、

何でもいいから何かを始めることが今の自分に

一番必要な事なのかもしれません。

 

https://www.facebook.com/sharehouse.jp/

シェアハウス わたしたちが他人と住む理由  by facebookより

 

 

 

出来そうでできないことなのだ

雪がとけて暖かくなり始めたころから、雪が降り出しそうな

寒さか近づく頃まで、事務所の車庫で小商の花屋さんを開きます。

花の種類も少ないですし、技術はありませんので

ご自宅で飾る花専門です。

小商の繁昌も願ってはいるのですが、

車庫を土間に見立てて、ご近所のたまり場にも

なれるような空間になると嬉しいなというおもいもあり、

オープンしました。

でも、やっぱり花屋のイメージが強くてお客さんも

尻込みをして中に足を踏みいてれてもらえなが悩みです。

今年は何かワークショップなるものの企画をと考えている

のですが、なんせ車庫なもので、どんな事が出来るのだろうと

考えあぐねています。

一番いいのはおしゃべりの会なんですけどね。

無名で無趣味の自分が「しゃべりましょう」とアナウンスした

ところで人が集まって来るはずもないので、どうしたものか。

知恵を絞らないとだめですね。

 

tsurumakikosuke.blog.jp

 

 

 

ホーム - 名前はまだない大学

 

 

 

月3万円を稼ぐ

小商いビジネスが流行っているらしい。

 

小商い=副業と、とらえてもいいかもしれない。

 

小商いといえども商いは商い。

 

「物を売る」ビジネスでれば、商品を仕入れるのか、自分で

 

何かを作るにしても、それなりに準備が必要となる。

 

それでもアイディア次第で、チャンスは生まれるかもしれない。

 

ところが、このアイディアという代物がなかなか難しいのだ。

 

考えていると頭の中はグルグルだけを繰り返して、時間ばかりが

 

過ぎていく。

 

月3万円のビジネスをたとえば3つ立ち上げたとして、ドンブリ勘定で

 

合計9万円の稼ぎとなる。いいぞー!!うらやましいぞー!!

 

妄想の域から脱出できないでいる。

 

 

 

月3万円ビジネス | 仕事と暮らしを自分の手に取り戻そう

 

 

 

 

ただ生きる

ご近所付き合いしていますか?

ご近所付き合いは必要でしょうか?

 

いつ頃から、ご近所とは疎遠になるようになってしまった

のでしょう。

最近は、町内会に加入することをこばむ人もいるようで。

分かる気はするんですよ、町内会に入ると行事参加や数年も経てば

会計だ、役員だってまわってくるし何かとわずらわしいですもん。

子供の頃、町内会の会計だった親が私に「悪いけど町内会費を集めて

来て」ってお願いされ集めに歩いたこともありました。

素直に応じたのは子供心に忙しくしている母を思う気持ちが

あったのでしょうか。

 

育った時代は映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような

みんなまだ貧乏で、でもなんか未来に希望があふれていたように、

今からおもうと感じます。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機がまだも三種の神器と言われていたかも。

物心ついた時には我が家には三種の神器はあったから

ALWAYSの方が時代は古いですね。

そろそろ、家庭で車を購入する時代に入っていました。

うちでも最初に購入したのは多分あれはカリーナだったんじゃ

ないかな。

小学校の低学年の時に、田舎の国道の舗装工事が始まりだした記憶が

あります。

たまたま、実家の隣に工事現場の番屋があり、そこに毎日遊びに行って

いました。おじさん達が可愛がってくれて、バイクの後ろに乗せて

もらったこともある。ヘルメットをかぶった写真が証拠。

今、子供がそんなところに一人で自由に出入りするなんて許される

はずもないよね。

 

よくよく考えてみたら、実家が自営業だったせいもあるのかもしれ

ないけれど、子供の頃っていつも大人の中にいたんだな。

それなのに、大きくなるにつれてどんどん人見知りするように

なってしまい挨拶するのも気後れするような時もあったけ。

今でも、人と会うのは億劫なところがありますが。

 

ご近所付き合いは突然できるものではないと思うのですよね。

時間をかけて少しずつ距離を縮めて、ある一定のところまで

きたらそれ以上は踏み込まない暗黙の了解みたいなルールが出来た

ところぐらいからが本当のお付き合いの始まりなのではないでしょうか。

合うあわないを見極める時間だって必要ですしね。

今日から突然、仲良くなんて絶対無理。

 

昔は確かにおせっかいおばさんや口うるさい近所のおやじや、

いじめっ子、いじめられっ子といろんな人がうじゃうじゃいました。

どうして知っているかというと、子供は外で遊んでいたからです。

家の中で友達と遊んでいると、「外で遊んできなさい!」と

おん出されるので、仕方なく外へと出て行きます。

雨の日は、軒先で遊んだりね。

外で友達といたずらしていると、近所のおやじに怒られて、

逃げ出しますが、捕まる友達もいました。

捕まえられた子はどうなったんだろう?覚えていない。

 

車も走っていない不審者もいない。だから子供は安心して自由に

外で遊べることが出来ました。

変な人がいたとしても近所のおじさんおばさんがどこで

目を光らせていました。

飼い犬もまだ繋がれていなかったから、自由にひとりいえ、

勝手に散歩していました。

私達が遊んでいると、しっぽを振って寄ってきます。

もちろん、どこのお家の犬なのかは知っています。

しばらく私達と一緒に遊んでいたかと気づけば、

ちゃんと飼い主の家に戻って行くのです。

間もなく、繋いで飼うように指導が入りましたが・・・。

 

近所の子供達との間で上下関係や軋轢も経験します。

自分の周りには、いろんな人がいるということの経験値が積み重なり

自然に人間関係の素地は仕上がっていったんじゃないだろうか。

 

戦後は、急速に個人主義核家族がすすみ、家庭環境が

大きく変わってしまいました。

それが悪いわけではないのでしょうが、日本人の気質には

そぐわなくて、時代がすすむとともにいびつになって

いったのでは?

 

東日本を経験したことにより、これまでの価値観が変わったのは

まぎれもない事実です。何かを取り戻す、はじめる?

 

「ただ生きる」。この言葉の重みは、震災が教えてくれました。

 

ナチュラルに人間関係を築く知恵を身につけることが

日々の暮らしの楽しさに結びついていくような気がします。

 

 

 

lab.machimachi.com